2004年7月4日日曜日

お茶の裏世界を銀座でのぞく

今日はいろんな意味で勉強になった日だった。
大人の裏社会と言おうか、商売の仕組みと言おうか。大げさに言えば400年以上茶道の伝統が続く仕組みの根底を見た。

私は茶道を学んでいる。時間の許す限り毎週土曜日のお稽古に通っているが、ここ2ヶ月は仕事がハードで一日も行けなかった。先週出張ピークを終えてほっと一息。そんなとき、タイミング良く舞い込んだお話がお茶会のお誘いだ。お誘いと言っても、こちらが振る舞う方で飲みに行く方ではない。しかも漆の展覧会を見に来た人に横でお茶を点てて振る舞うと言う。会場は銀座。「展覧会の横でお茶を点てる」、そんな経験ないけれど、面白そう!ということで楽しみにしていました、今日という日を。

会場に着くなり何かが違うと思った。展覧会と聞いていたのだが、銀座の老舗の漆屋さんの店内にお茶道具がずらっと並んでいる。しかも○十万はするような品ばかり。その奥にひっそりお茶をサービスできるコーナーがあった。全て準備済み。あとは点てるだけのお膳立てまでしてあった。お茶菓子は金沢から取り寄せ、茶碗はベネチアングラスの内側を漆塗りで手が込んでいる。水指しはバカラのグラス。洒落た道具が揃っていた。こんな良いお茶道具でお手前点てられるなんて、嬉しい!!一緒にいた仲間も皆そう思っていたはずだ。

ところが、お店が開いても誰も来る気配がない。振る舞う相手がいない一同は店内をうろつき始めた。
「こんないい道具見られる機会はないわよ。目にご馳走よ。」なんて先生は言うし。すると気がついた。お店の人にソフトにお棗を薦められていた。いくばくか割引もできるとか、若いうちだからこそ買っておくといいよとか、しまいにはお勤めされていれば月々のローンも楽ですと言われていた。

ここで気がついた。お客様が来たらお茶をもてなすのではなく、私たちがお店にとってのお客様だったのだ。お客様が見えるまでは自分たちでお茶を点てて飲んでいたが、お客様である私たちを私たち自らもてなしていたのだ。

お昼以降はエスカレートした。お弁当はお店が用意してくれていると聞いていたら、お弁当どころかお昼の懐石料理店に連れて行かれた。たっぷりおいしいご飯をご馳走になり満腹笑顔でお店に戻るが、やはりお客様は来ない。いよいよお客様である私たちは営業トークの射撃に合う。年配の方から順に。私みたいなひよっこには連射はないが、残り玉ぐらい打ち込まれる。数万円ぐらいの品をすすめられた。

午後2時30分。
この射撃が終了したのは、先生がお棗購入を決めた瞬間だった。もちろん○十万円もする品だ。そしてお客様は誰も来ず、お茶を振る舞う相手もいなくその日の展覧会は終了した。

帰り道、私たちはどこか複雑な気持ちを抱えていた。世間知らずのせいでもあろうが、やっぱりお茶を振る舞うことができると思って参加した今日一日は、すっかり売り込みの的にされうんざりして鈍い気持ちになっていた。ビジネスの一つのカタチと言えばそうだけれど、私たちは趣味の一つとして参加していたから・・・

今日のようなカタチでお茶道具は売れ、道具の文化は廃れることなく続いてきたのであろう。そう思うとお道具を買えない自分にもジレンマを感じたし、そういうふうにしか残っていけない文化というのにもジレンマだった。

趣味の程度で始めた。お道具を見るのも楽しいし、良いお道具で目が肥えていくのも自分として嬉しい。お茶を愛してくる過程がそこにはある。物事深く知り始めれば良い面もあって悪い面もある。両方をよく知った上で好きと言えるものが好きなんだろう。そう思った。

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